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2012年01月20日

北九州と暴力団 (3)

工藤会総裁であった溝下秀男が死去したのは平成20年7月1日である。
肝臓移植の手術を受けたのだが、術後の経過不良が原因だったらしい。

この時期、大物組長が次々と肝臓移植を行っている。
稲川会の三代目会長で、映画「修羅の群れ」のモデルとなった稲川裕紘、山口組五代目若頭補佐、六代目舎弟を務めた後藤組長後藤忠政が肝臓移植を行い、溝下と稲川はその経過不良が原因で死亡している。

溝下の葬儀会場は、溝下が精魂込めて建設した工藤会館ではなく、民間の葬儀会場であった。
福岡県警は葬儀会場の運営会社に対して、執拗に会場使用の拒絶を要請したが、運営会社は溝下に人間的な魅力を感じている人物であったため、葬儀場運営会社の代表者は「工藤会の葬儀ではない。溝下家の葬儀である。」と言って警察の要請を断り、葬儀は敢行された。
なお、溝下の3回忌法要も同じ会場で行われている。

葬儀当日は、全国から暴力団の最高幹部が勢揃いした。
跡目抗争により道仁会から分裂し、抗争中であった大牟田市の九州誠道会以外の全国の主要組織の当代(組長等)が溝下の葬儀に参列したのだ。
葬儀は工藤会総裁としてのものではなく、溝下家葬儀として行われたため、暴対法による警察の目もある中、地元病院関係者や商店主も多数参列するなど、堅気に愛された溝下らしい葬儀であった。

余談だが、生前、溝下はユーモアにも溢れていた。
県警の家宅捜索が余りにも執拗に続くので、溝下は「猛犬注意」と書いた紙を貼って、交友のあった桑田兼吉山健組長(当時)から寄贈されたドーベルマンを2頭庭に放し飼いした。
さらに、座敷にはペットとして飼っていたボア(大蛇)も置いた。
踏み込んだ警察はさどや驚いたことだろう。
因みに、このボアについては、何かの拍子に牙が欠けたらしい。その時、溝下は旧知の歯科医に患者が大蛇であることを告げずに往診してもらい、治療してくれと言った。
流石に、生命の危機を感じた歯科医は「親分こらえてつかあさい」と言ったて降参したらしい。

また、溝下は自宅の表札を外して、「みぞしたアニマルランド」と書いた看板を掲げたこともあった。
警察に対するイタズラである。
確かに、当時の工藤会の連中は、人間にしておくのが勿体ないほどの恐ろしい顔をした者が多く、その意味では「アニマルランド」はピッタリなのだが、たまたま調査に来た住宅地図製作会社の「ゼンリン」の調査員が、それを見たため、住宅地図に「みぞしたアニマルランド」が載ってしまったのだ。

溝下は、配下に対して、地域に迷惑をかけるなと言い続けた。
組員には出来るだけ人の多い時間に飲み屋などに顔を出すなと命じていた。
暴走族が通行する車の前を蛇行運転するなどしているのを見つけると、溝下は、暴走族の前に車を割り入れて停車させ、暴走族全員を道路に正座させて1時間以上も説教をしたこともあった。

そんな溝下秀男が死んだ。

工藤組と草野一家を和解、統合した1987年には、年長であり、かつては草野高明の親分であった工藤玄治は引退しており、草野高明が総裁となった。
旧工藤組系では、田中組が構成員数、資金力ともに群を抜いていたが、若頭には旧草野一家系極政組長の溝下が就任した。
溝下が組長をしていた極政組は、工藤組と草野一家が抗争を繰り返していた頃、工藤組の若頭(田中組の組長)であった田中新太郎を射殺した組織である。
田中新太郎のあとを継いだ田中組組長の野村悟は、溝下から次期の総裁への就任を約束されて、溝下の風下に甘んじることになるが、田中組の内部には、極政組への遺恨が脈々と引き継がれていたのだ。

溝下が全国的な人望を集めていたため、存命中に野村悟は動けなかったが、溝下が死ぬと野村悟工藤会四代目は、すぐに行動を起こす。
溝下が死に、野村が四代目を継いだ頃、当時の極政組の組長は溝下子飼いで、八幡西区萩原1に住む江藤允政であった。
江藤は、知人の傷害事件に絡んで、被害者を脅迫して処罰を望まない内容の上申書を作らせたとして強要罪に問われ、懲役2年の服役中であった。
ところが、野村は、江藤が服役中に極政組長を若頭の今田雄二に代える工作をし、江藤を極政組から追放した。

さらに、極政組と同じく旧草野一家の主力組織であった篭縞組の元組長で溝下の警備隊長であった徳本敏が殺害され、溝下の舎弟で篠塚組の組長であった篠塚一雄も射殺されている。
旧草野一家系の徳永組、氷室組、園田組は解散させられた。

こうして、工藤会の内部から旧草野一家の実力者が次々と消えていった。

現在では、工藤会は野村悟総裁、田上美夫会長、菊地敬吾理事長トップ3名がいずれも田中組出身者が独占するという、異常な状況となっている。

一方、溝下色の強い幹部は、組織委員長に極政組の今田雄二と閑職である常任相談役に西田組組長の西田明吉、事務室長として上高組組長の上高謙一のみであり、このうち上高は、組員を持たない「ひとり組長」であるから、組織内への影響力は薄い。
篭縞組長の篭縞武志も渉外委員長として名を連ねているが、篠塚一雄を射殺した小野朗が篭縞組の出身者であるのに、本部からの処分がないことなどから、篭縞組は親田中組と考えられる。

堅気への手出しを厳禁していた溝下が去り、旧工藤組系の田中組の支配が強まるにつれて、工藤会は、暴対法の煽りでシノギが苦しくなったこともあって、堅気の建設業者や飲食店などに暴力攻勢をかけているとの見方は間違いだろうか。
清水建設や西部ガスへの襲撃や中洲のクラブ経営者への襲撃事件は溝下の死後発生しているのだ。

勿論、溝下も暴力の世界に生きてきた人間であり、数多くの事件に関与している。
暴力団は如何なる理由があっても反社会的勢力である。
彼らの懐には常に暴力装置がある。
任侠の映画の世界と現実は大きく違うのだ。

そんなことを重々承知の上でも最近の工藤会は変質したと感じている人間が私以外にも沢山いるのではないだろうか。
posted by 8ちゃん at 17:53| Comment(6) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年01月19日

北九州と暴力団 (2)

本日のニュースで、福岡県中間市で発生した建設会社社長襲撃事件に関し、警察が工藤会本部などに家宅捜索に入ったと報じている。
さて、どんなネタで捜索令状を取ったのだろうか。
この事件は、有力な物証もなく、襲撃犯が特定出来ていない事件である。
警察は何かつかんだのだろうか。それとも見込み捜査だろうか。
裁判所も被疑者が暴力団絡みだと簡単に礼状を交付する傾向があるが、どんなものだろう。
暴力団本部に対する家宅捜索は、警察の嫌がらせみたいなもので、警察もはじめから成果など期待していない。
世間に対して「警察も頑張ってますよ。」というアピールに過ぎないのだ。
どこの組が、本部事務所に殺人依頼のFAX原稿やチャカなどを置いておくものか。
それでも警察は執拗に家宅捜索を行う。
場合によっては、組事務所と組長の私邸とが同一の建物となっているケースもあり、その場合は子供のランドセルまで開けて調べるらしい。
枝(3次団体等の末端組織)が仕出かしたタタキ(恐喝)などの些細な犯罪でも本部事務所を捜索する。
これにより、本部は迷惑を蒙るので、組織内に対して犯行を犯さないように若頭あたりから指示を出させるのが狙いだろうか。

さて、工藤会である。
1987年に抗争を続けていた工藤組と草野一家は、草野一家の若頭で極政組(旧溝下組)の組長であった溝下秀男が、対立していた工藤組若頭田中組の野村悟組長と和解し、草野高明を総長とし、溝下を若頭とする体制を作った。
工藤連合草野一家の誕生である。
溝下はその後1990年に草野の跡目を引き継ぎ、会長(後に総長)に就任している。
結果として、工藤組と草野一家が大同団結したものの、傘下最大組織である田中組からは、野村悟が溝下の跡に若頭就いたのみで、トップは連続して草野一家から排出することとなった。
このことが後日において禍根となり、工藤組内の種々の問題を生んでいるが、それは後述する。

なお、草野高明と溝下秀男の関係は肉親を上回るものがあり、溝下が極政組時代に渡世に不義理をして身を隠すこととなった時には、草野は溝下に食べさせようと鯛を買い、4時間かけて自分で自転車をこいで溝下が潜伏している場所まで運んだのだ。
溝下は涙で鯛を食べることが出来なかったと後日話している。

昭和21年生まれの溝下は、若い頃に門司の愚連隊である大長健一の家に住み込んでいた時代もあったが、大長の元を離れ、昭和54年に草野一家に転がり込んだ。このとき溝下24歳であった。
溝下は、その才覚から、すぐに目立つ存在となり、溝下組としての舎弟や若中も連れての参入であったこともあって、翌昭和55年にはbQの若頭に出世する。
工藤会と草野一家の大同団結を成功させたのもこの頃である。

当時は、山口組の九州侵攻が具体化していたため、これに対抗するという大儀も工藤会結成には追い風となった。
紫川事件(工藤組員が山口組系地道組組員2名を市内の紫川の河原で撲殺した事件)などで工藤会の手強さを知った山口組は、北九州市を飛び越えて、博多や久留米に進出した。
山口組の先頭は、博多の愚連隊出身の伊豆組、伊豆健児組長であった。
伊豆組長は、別府の石井一郎に次ぐ2人目の九州地区における山口組の直参だったが、石井が昭和48年に死去した後は、九州での山口組のたった一人の直参となった。
伊豆は、久留米や大牟田を地盤とする道仁会との間で、山道抗争と呼ばれる過激な抗争を指揮した人物である。
このころ、山口組は、四代目竹中正久組長の就任を巡って分裂。加茂田組などの一和会との山一戦争が勃発しており、伊豆組長は、山道抗争をひとりで闘うこととなる。

草野高明の死去により、工藤会の当代となった溝下秀男は、独自の路線を歩んでゆく。
旧工藤組系田中組出身の野村悟を次期組長を約して若頭に据え、組織内を固めると、九州の太州会、道仁会、熊本会と「四社会」を結成して山口組に対抗する一方、京都の会津小鉄会や関東の有力組織と親交を深めて地位を固めていった。
また、山口組とも当時の山健組長であった桑田兼吉からドーベルマン2頭が送られるなどの交流をしている。

溝下は、当代就任とともに独自の行動を起こす。
社会が暴力団排除の方向に向かっていることを早い段階から感じ、早晩、ホテル、旅館などでの盃事は出来なくなるとして、小倉北区神岳1−1−12に300人収容の大広間を有する工藤会館を建設している。
中国人の歓楽街進出が顕著な東京や大阪の治安悪化の状況をみた溝下は、屈強な配下30名を選抜して、支配下区域内の歓楽街における中国人の排除部隊を結成する。
排除部隊は北九州の街を1軒づつ、虱潰しに調査して、中国人経営のクラブや中国人による実質支配の飲食店、風俗店を見つけると、暴力を背景に立ち退きを強要し、従わない場合は店に放火したりして、遂には北九州地方には中国人経営の店舗が皆無となったのである。
なお、工藤会は中華人民共和国在福岡総領事館に散弾を打ち込むなど、中国人に対する行動は過激である。

そんな工藤会が、溝下が死去した平成8年以降、大きく変わってきた。
現在の建設会社社長襲撃の嫌疑も変貌、変質した工藤会なら十分に考えられるのだ。

工藤会は何が変わったのか。

この話の続きは次回です。
posted by 8ちゃん at 15:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年01月18日

北九州と暴力団

福岡県の遠賀川流域の町、中間市で黒瀬建設社長の黒瀬隆社長が何者かに銃撃され、腹部と腕に全治1ヶ月の重傷を負ったとのニュースが入ってきた。
隣の小倉では昨年、日本建設大工工事事業組合の副会長で九州支部長の内納敏博氏が凶弾に倒れている。
この2人は、北九州の建設業界では力を持った人たちで、ゼネコンなどの工事下請業者の取り纏めをしていた。
つまり、ゼネコンが元請したものをこの2社に下請けさせ、2社は孫受け業者を選定する。
工事利権を得ようとする暴力団にとっては重要な役割を持つ会社である。

暴力団は工事からいろいろな形で金を稼ぐ。
通常、工事費の約5%程度で積算、予算化する現場管理費には領収書の要らないもの(損金不算入)もある。
例えば、少し前までには工事車両の出入り口に街宣車やベンツを駐車する。
困った工事責任者は警察に相談するが、駐車違反の場所でもなく、公道上でもない工事進入路に駐車しているのだから、警察も引き揚げるしかない。
そのうち、工事を請け負った会社の幹部が現金を持って挨拶に来る。
勿論、領収書は要らない

また、現在でも行っている手口としては、自分の企業舎弟を孫受けに押し込む。
企業舎弟と言っても工事は出来ないのだ。
実際の工事は、さらにその下の業者に施工させ、工事代金をピンハネする。
また、工事現場の警備員は殆ど暴力団がらみの会社が請け負う。
その他、生コンや資材の仕入れに至るまで、暴力団は食い込んでいくので、大きな工事でなくとも相当の金になるのだ。

しかしながら、暴力団排除条例が昨年10月までに全国で制定され、福岡県も平成23年4月に条例が出来るなど、暴力団排除の動きが加速し、暴力団はシノギが厳しくなっている。
今まで暴力団と持ちつ持たれつの関係にあった業界も条例による利益提供者への罰則(企業名開示)や株主代表訴訟などのリスクもあって、暴力団からは距離を置くようになってきた。
そのため、福岡でも中州の飲食業者や建設業業者と暴力団との間で、軋轢が表面化してきているのだ。
中州のクラブでは、ショバ代や守料といった「みかじめ料」を断った高級クラブに汚物が蒔かれ、建設業者のほかにも暴力団追放運動のリーダーが襲撃されている。
昨年全国で発生した発砲事件は44件であるが、このうち福岡県が18件を占める状況にあり、異常な数値を示している。
勿論、この中には大牟田や久留米の道仁会と九州誠道会の跡目争いに端を発したヤクザ同士の内部分裂抗争が多数含まれるが、北九州沖の液化天然ガス開発に絡んだ清水建設関係者や西部ガス関係者など、堅気への襲撃事件も多数含まれる。
今回の事件はそんな背景があるようだ。

今回の事件について、警察は北九州を地盤とする指定暴力団、工藤会の仕業と見ているようだ。

工藤会が基盤とする小倉周辺や飯塚市、田川市、直方市などの北九州一帯は遠賀川流域の炭鉱の町としての歴史があり、川筋者といわれる気性の荒い歴史が今も残っている。
この地域の人たちは気前が良く、男も女も気性がさっぱりしているが、熱血漢が多く、喧嘩も絶えない。
そういえば、脳細胞が僅少なため、漢字が読めないことで有名な麻生太郎元首相のルーツも遠賀地方だ。
麻生太郎の祖父である麻生太吉は庄屋であった頃の蓄財を炭鉱に投資し、その後セメント製造などに進出して巨万の富を得た。
麻生家では麻生太吉は貴族院議員であったことを自慢しているが、これは貴族院多額納税者議員というものであって、貴族院令第6条により、各府県毎のトップ納税者が資質に関係なく議員になれたものである。
麻生太郎は、下品な風貌から分るように、腕力と財力がものを言う炭鉱夫のボスの子孫であり、しばしば比較される鳩山一族に比べてれば品格がかなり落ちるのだ。

福岡県には5つの暴力団がある。
道仁会 久留米市京町247−6 850人
太州会 田川市大字弓削田1314−1 180人
三代目福博会 福岡市博多区千代5−18−15 280人
九州誠道会 大牟田市上官町2−4−2 380人
それと、北九州市小倉北区神岳1−1−12に鉄筋の堅固な本部を構える五代目工藤会が組員約660名を率いている。

工藤会は、戦後間もなく、小倉において工藤玄治が工藤組を結成し、主に博打を生業としていた団体である。
工藤組は、他の九州ヤクザ同様、山口組には組せず、独立を保っていたが、九州侵攻を狙う山口組との抗争により服役した若頭の草野高明が出所後、離脱。草野一家を結成して工藤玄治と対立することとなる。
因みに、草野高明は、各方面から人望のあった生粋の博徒で、山口組三代目の田岡組長もその人柄に惚れて「飲み分け(5分の兄弟分)の盃でもよい。」とまで言わせた人物である。

工藤組の主力は田中組で、草野一家の中心は極政組であったが、元々身内のこの両組は互いの組長を殺害することとなり、両者の対立は深刻な状況になってきた。
この抗争は多くの死者を出して7年間続くが、昭和62年に草野一家若頭で、極政組組長の溝下秀男の奔走により手打ちとなる。

※筆が走りすぎて脱線模様ですので、この続きは次回に掲載します。
posted by 8ちゃん at 16:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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