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2012年01月18日

北九州と暴力団

福岡県の遠賀川流域の町、中間市で黒瀬建設社長の黒瀬隆社長が何者かに銃撃され、腹部と腕に全治1ヶ月の重傷を負ったとのニュースが入ってきた。
隣の小倉では昨年、日本建設大工工事事業組合の副会長で九州支部長の内納敏博氏が凶弾に倒れている。
この2人は、北九州の建設業界では力を持った人たちで、ゼネコンなどの工事下請業者の取り纏めをしていた。
つまり、ゼネコンが元請したものをこの2社に下請けさせ、2社は孫受け業者を選定する。
工事利権を得ようとする暴力団にとっては重要な役割を持つ会社である。

暴力団は工事からいろいろな形で金を稼ぐ。
通常、工事費の約5%程度で積算、予算化する現場管理費には領収書の要らないもの(損金不算入)もある。
例えば、少し前までには工事車両の出入り口に街宣車やベンツを駐車する。
困った工事責任者は警察に相談するが、駐車違反の場所でもなく、公道上でもない工事進入路に駐車しているのだから、警察も引き揚げるしかない。
そのうち、工事を請け負った会社の幹部が現金を持って挨拶に来る。
勿論、領収書は要らない

また、現在でも行っている手口としては、自分の企業舎弟を孫受けに押し込む。
企業舎弟と言っても工事は出来ないのだ。
実際の工事は、さらにその下の業者に施工させ、工事代金をピンハネする。
また、工事現場の警備員は殆ど暴力団がらみの会社が請け負う。
その他、生コンや資材の仕入れに至るまで、暴力団は食い込んでいくので、大きな工事でなくとも相当の金になるのだ。

しかしながら、暴力団排除条例が昨年10月までに全国で制定され、福岡県も平成23年4月に条例が出来るなど、暴力団排除の動きが加速し、暴力団はシノギが厳しくなっている。
今まで暴力団と持ちつ持たれつの関係にあった業界も条例による利益提供者への罰則(企業名開示)や株主代表訴訟などのリスクもあって、暴力団からは距離を置くようになってきた。
そのため、福岡でも中州の飲食業者や建設業業者と暴力団との間で、軋轢が表面化してきているのだ。
中州のクラブでは、ショバ代や守料といった「みかじめ料」を断った高級クラブに汚物が蒔かれ、建設業者のほかにも暴力団追放運動のリーダーが襲撃されている。
昨年全国で発生した発砲事件は44件であるが、このうち福岡県が18件を占める状況にあり、異常な数値を示している。
勿論、この中には大牟田や久留米の道仁会と九州誠道会の跡目争いに端を発したヤクザ同士の内部分裂抗争が多数含まれるが、北九州沖の液化天然ガス開発に絡んだ清水建設関係者や西部ガス関係者など、堅気への襲撃事件も多数含まれる。
今回の事件はそんな背景があるようだ。

今回の事件について、警察は北九州を地盤とする指定暴力団、工藤会の仕業と見ているようだ。

工藤会が基盤とする小倉周辺や飯塚市、田川市、直方市などの北九州一帯は遠賀川流域の炭鉱の町としての歴史があり、川筋者といわれる気性の荒い歴史が今も残っている。
この地域の人たちは気前が良く、男も女も気性がさっぱりしているが、熱血漢が多く、喧嘩も絶えない。
そういえば、脳細胞が僅少なため、漢字が読めないことで有名な麻生太郎元首相のルーツも遠賀地方だ。
麻生太郎の祖父である麻生太吉は庄屋であった頃の蓄財を炭鉱に投資し、その後セメント製造などに進出して巨万の富を得た。
麻生家では麻生太吉は貴族院議員であったことを自慢しているが、これは貴族院多額納税者議員というものであって、貴族院令第6条により、各府県毎のトップ納税者が資質に関係なく議員になれたものである。
麻生太郎は、下品な風貌から分るように、腕力と財力がものを言う炭鉱夫のボスの子孫であり、しばしば比較される鳩山一族に比べてれば品格がかなり落ちるのだ。

福岡県には5つの暴力団がある。
道仁会 久留米市京町247−6 850人
太州会 田川市大字弓削田1314−1 180人
三代目福博会 福岡市博多区千代5−18−15 280人
九州誠道会 大牟田市上官町2−4−2 380人
それと、北九州市小倉北区神岳1−1−12に鉄筋の堅固な本部を構える五代目工藤会が組員約660名を率いている。

工藤会は、戦後間もなく、小倉において工藤玄治が工藤組を結成し、主に博打を生業としていた団体である。
工藤組は、他の九州ヤクザ同様、山口組には組せず、独立を保っていたが、九州侵攻を狙う山口組との抗争により服役した若頭の草野高明が出所後、離脱。草野一家を結成して工藤玄治と対立することとなる。
因みに、草野高明は、各方面から人望のあった生粋の博徒で、山口組三代目の田岡組長もその人柄に惚れて「飲み分け(5分の兄弟分)の盃でもよい。」とまで言わせた人物である。

工藤組の主力は田中組で、草野一家の中心は極政組であったが、元々身内のこの両組は互いの組長を殺害することとなり、両者の対立は深刻な状況になってきた。
この抗争は多くの死者を出して7年間続くが、昭和62年に草野一家若頭で、極政組組長の溝下秀男の奔走により手打ちとなる。

※筆が走りすぎて脱線模様ですので、この続きは次回に掲載します。
posted by 8ちゃん at 16:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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