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2012年01月19日

北九州と暴力団 (2)

本日のニュースで、福岡県中間市で発生した建設会社社長襲撃事件に関し、警察が工藤会本部などに家宅捜索に入ったと報じている。
さて、どんなネタで捜索令状を取ったのだろうか。
この事件は、有力な物証もなく、襲撃犯が特定出来ていない事件である。
警察は何かつかんだのだろうか。それとも見込み捜査だろうか。
裁判所も被疑者が暴力団絡みだと簡単に礼状を交付する傾向があるが、どんなものだろう。
暴力団本部に対する家宅捜索は、警察の嫌がらせみたいなもので、警察もはじめから成果など期待していない。
世間に対して「警察も頑張ってますよ。」というアピールに過ぎないのだ。
どこの組が、本部事務所に殺人依頼のFAX原稿やチャカなどを置いておくものか。
それでも警察は執拗に家宅捜索を行う。
場合によっては、組事務所と組長の私邸とが同一の建物となっているケースもあり、その場合は子供のランドセルまで開けて調べるらしい。
枝(3次団体等の末端組織)が仕出かしたタタキ(恐喝)などの些細な犯罪でも本部事務所を捜索する。
これにより、本部は迷惑を蒙るので、組織内に対して犯行を犯さないように若頭あたりから指示を出させるのが狙いだろうか。

さて、工藤会である。
1987年に抗争を続けていた工藤組と草野一家は、草野一家の若頭で極政組(旧溝下組)の組長であった溝下秀男が、対立していた工藤組若頭田中組の野村悟組長と和解し、草野高明を総長とし、溝下を若頭とする体制を作った。
工藤連合草野一家の誕生である。
溝下はその後1990年に草野の跡目を引き継ぎ、会長(後に総長)に就任している。
結果として、工藤組と草野一家が大同団結したものの、傘下最大組織である田中組からは、野村悟が溝下の跡に若頭就いたのみで、トップは連続して草野一家から排出することとなった。
このことが後日において禍根となり、工藤組内の種々の問題を生んでいるが、それは後述する。

なお、草野高明と溝下秀男の関係は肉親を上回るものがあり、溝下が極政組時代に渡世に不義理をして身を隠すこととなった時には、草野は溝下に食べさせようと鯛を買い、4時間かけて自分で自転車をこいで溝下が潜伏している場所まで運んだのだ。
溝下は涙で鯛を食べることが出来なかったと後日話している。

昭和21年生まれの溝下は、若い頃に門司の愚連隊である大長健一の家に住み込んでいた時代もあったが、大長の元を離れ、昭和54年に草野一家に転がり込んだ。このとき溝下24歳であった。
溝下は、その才覚から、すぐに目立つ存在となり、溝下組としての舎弟や若中も連れての参入であったこともあって、翌昭和55年にはbQの若頭に出世する。
工藤会と草野一家の大同団結を成功させたのもこの頃である。

当時は、山口組の九州侵攻が具体化していたため、これに対抗するという大儀も工藤会結成には追い風となった。
紫川事件(工藤組員が山口組系地道組組員2名を市内の紫川の河原で撲殺した事件)などで工藤会の手強さを知った山口組は、北九州市を飛び越えて、博多や久留米に進出した。
山口組の先頭は、博多の愚連隊出身の伊豆組、伊豆健児組長であった。
伊豆組長は、別府の石井一郎に次ぐ2人目の九州地区における山口組の直参だったが、石井が昭和48年に死去した後は、九州での山口組のたった一人の直参となった。
伊豆は、久留米や大牟田を地盤とする道仁会との間で、山道抗争と呼ばれる過激な抗争を指揮した人物である。
このころ、山口組は、四代目竹中正久組長の就任を巡って分裂。加茂田組などの一和会との山一戦争が勃発しており、伊豆組長は、山道抗争をひとりで闘うこととなる。

草野高明の死去により、工藤会の当代となった溝下秀男は、独自の路線を歩んでゆく。
旧工藤組系田中組出身の野村悟を次期組長を約して若頭に据え、組織内を固めると、九州の太州会、道仁会、熊本会と「四社会」を結成して山口組に対抗する一方、京都の会津小鉄会や関東の有力組織と親交を深めて地位を固めていった。
また、山口組とも当時の山健組長であった桑田兼吉からドーベルマン2頭が送られるなどの交流をしている。

溝下は、当代就任とともに独自の行動を起こす。
社会が暴力団排除の方向に向かっていることを早い段階から感じ、早晩、ホテル、旅館などでの盃事は出来なくなるとして、小倉北区神岳1−1−12に300人収容の大広間を有する工藤会館を建設している。
中国人の歓楽街進出が顕著な東京や大阪の治安悪化の状況をみた溝下は、屈強な配下30名を選抜して、支配下区域内の歓楽街における中国人の排除部隊を結成する。
排除部隊は北九州の街を1軒づつ、虱潰しに調査して、中国人経営のクラブや中国人による実質支配の飲食店、風俗店を見つけると、暴力を背景に立ち退きを強要し、従わない場合は店に放火したりして、遂には北九州地方には中国人経営の店舗が皆無となったのである。
なお、工藤会は中華人民共和国在福岡総領事館に散弾を打ち込むなど、中国人に対する行動は過激である。

そんな工藤会が、溝下が死去した平成8年以降、大きく変わってきた。
現在の建設会社社長襲撃の嫌疑も変貌、変質した工藤会なら十分に考えられるのだ。

工藤会は何が変わったのか。

この話の続きは次回です。
posted by 8ちゃん at 15:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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