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2012年05月15日

沖縄復帰40年

今日、2012年5月15日は沖縄が日本に復帰して40年となる日である。
宜野湾市では、野田首相も参加した記念式典が行われている。

140万人が暮らし、離島も含めて2,276平方キロの南の島は、日本や中国、そしてアメリカといった外国からの蹂躙に耐え続けてきた歴史をもった島である。

1429年というから、日本では室町幕府のころ、琉球では、南山王国という豪族を尚巴志が倒して琉球王国を建てた。
最盛期には奄美まで支配下に治めた人口17万人の美しい国は、中国や日本との中継貿易などで独自の文化を築いてきた。
平和な琉球王国に薩摩が突然攻め入ったのは、1609年である。
関が原で西軍に加担した後、家康との交渉で領土を保持した薩摩藩は、1609年3月、琉球王国に3000の軍をもって、攻め入り、徒手徒拳の琉球王国の民を制圧して、4月には首里城を落として、琉球王国を薩摩の属国としたのだ。

その時、奄美諸島は薩摩藩が直轄領としたが、それでも、琉球王国は独立したひとつの国家として生き延びた。
しかし、1872年、新しく生まれた明治政府は琉球王国を強制的に廃止して、琉球藩としたのだ。
そして、1879年4月4日に、明治政府は、琉球に軍隊と警官を送り込み、琉球藩の廃止を勝手に宣言して、鹿児島県に編入後、沖縄県としてしまったのだ。
このとき、琉球王朝の一部は中国(清)に亡命している。

そして、第二次世界大戦。

南方戦線での惨敗により、日本の敗戦が決定的となっても、首相であった鈴木貫太郎などの講和に向けた動きを日本軍部は無視、「神洲不敗」を信奉する軍の強硬派は本土決戦を唱えていたのだ。

本土決戦をするためには準備が要る。

軍部は、連合国軍の本土侵攻を遅延させ、その間、本土決戦の準備を確立するために「帝國陸海軍作戦計画大網」というものを1945年の1月に作って、本土決戦への準備が進められていくことになる。
この作戦に沖縄の悲劇が予約されるのだ。

作戦では、千島列島、小笠原諸島、南西諸島の沖縄本島以南、台湾などの地域に連合国軍が侵攻してきた場合、「出来る限り抗戦して敵の出血を図りつつ、本土の軍備を整える時間を稼ぐ」ということが明記されている。
つまり、沖縄戦は、日本本土で大決戦を行うための「時間稼ぎ」であり、生贄なのである。
1943年9月にはイタリアが降伏し、1945年5月にはドイツが降伏している。
明日のない戦いの中で、沖縄を犠牲にしてまでも自分達の戦争責任を回避しようとした連中がいるのだ。

そんな、軍部の計画通り、沖縄戦は1945年3月26日から6月20日までに、アメリカ軍の砲弾271万発、手榴弾40万発、機関銃3000万発を沖縄の市民に撃ち込んだ戦いが続けられたのだ。

日本人死者・行方不明者は188,136人で、沖縄出身者が122,228人、そのうち94,000人が民間人という悲惨な戦いの中には、アメリカ軍による婦女子への陵辱が10000件以上確認されているほか、日本軍がスパイの言いがかりをつけて殺した沖縄市民の数は1000人を超えている。

40年前、佐藤栄作首相が沖縄返還の式典で、万歳をしている傍ら、屋良朝苗沖縄県知事は、複雑な表情でそれを眺めていた。
本土復帰といっても、基地はそのまま、沖縄県の20%は県行政の及ばない治外法権のままだ。
核兵器の沖縄への持込やアメリカ軍への費用負担の密約も、今になって、初めて明らかにされている。

米軍基地が沖縄に集中することへの毎日新聞のアンケートでは、沖縄県民の80%以上が反対を表明しているのに、本土の住民のうち、反対しているのは30%だ。
これが同じ国民への回答だろうか。

琉球王国、沖縄は今でも日本の属国なのか。
posted by 8ちゃん at 16:11| Comment(4) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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