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2012年10月17日

蘇れ大阪 (2)

元々、大阪という地は海の底だったのだ。
現在の大阪市内の大半は大阪湾であり、僅かに上町台地と呼ばれる現在の中央区の一部が唯一の陸地だった。
時代とともに、淀川が運んでくる土砂が、河口に堆積して海を分断し、上町台地の東側に河内湖と呼ばれる巨大な湖ができた。
そして、5世紀以降は、大規模な治水事業により、次々と新たな陸地が生まれてきたのだ。

豊臣秀吉の時代になると、秀吉は大阪城の守りの強化と城下町の拡大、さらに治水の目的もあって、堀川という人工河川の開削を積極的に行った。
大阪市中心部にあった堀川は、今は暗渠となり、地上は阪神高速道路などになっているが、当時の堀川は巨大な運河であり、その堀川を掘った時に出た土は、川の両側に盛られて新たな土地ができた。
関西3大戎神社(他の2つは今宮戎、西宮戎)である堀川戎は、この元堀川の上にある。
盛土による新地の出現と、舟による物資の輸送が可能になったことで、堀川沿いには次々と新たな街が生み出されていった。

江戸時代になっても、新たな堀の開削は続き、江戸末期までには、大阪市内に15本の新しい堀が出来ていくのである。
江戸時代、大阪城の外堀は既に大阪夏の陣までには徳川家康の姦計と、淀君の秀吉への復讐のために埋められてなくなっていたが、大阪を直轄地(天領)とした徳川家は、掘の削には積極的で、大阪は、文字通り水都としての様相を示していくのであった。

全国の大名たちは、経済の中心であった米の取引が大阪で行われるため、堂島地区を中心に蔵屋敷を置いた。
蔵屋敷へは水路で年貢米が運ばれていたため、大阪市内には、運河と橋が増え続け、大阪は「八百八橋」と言われるほど橋と水路の多い都市となったのだ。
こうして、水の都として活況を呈した大阪は、日本全国の物流が集中する経済・商業の中心地となり、「天下の貨、七分は浪華にあり、浪華の貨、七分は舟中にあり。」とまで記されるようになった大阪は、経済都市として隆盛を極め、「天下の台所」とまで称されるのである。

因みに、堂島の米市場では世界で最初の先物取引が行われていたのだが、この堂島の先物取引は、差額決済という現在行われている先物取引決済と全く同じ手法が採られていたというから、驚きである。
偉そうに、先物の聖地などと言っているシカゴなどは、所詮、堂島の2番煎じなのである。

このように、物が集まれば、自然と人も集まる。
道頓堀には浄瑠璃や歌舞伎、からくり小屋が並び、元禄文化と呼ばれる華やかな芸術の中心地となっていく。
その道頓堀の周囲には2階から川面を見下ろせる多くの芝居茶屋が建ち並んだ。
当時、茶屋が並んでいた現在の宗右衛門町は、すっかり様相が変わって、韓国クラブや風俗の街に成り果てているのが悲しい。

一方、淀川を京都から下ってくる伏見船や三十石船は、大川の左岸、天満橋のたもとにあった八軒家浜で人と荷の上げ下ろしを行っていた。
八軒家浜とは、八軒の運送(飛脚)問屋が店を並べていたことにその名の由来があるが、この地名は今も天満橋駅(京阪、地下鉄)の西側に残っている。

さて、現在の大阪の川や堀はどうなっているのだろう。
そして、その水面をどのようにして、大阪の復権に繋げるのだろうか。

以下、次回に続く。


posted by 8ちゃん at 14:28| Comment(13) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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