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2013年01月25日

きょうへい先生

高橋亨平先生が死んだ。

福島県南相馬市。
震災の被害に加え、福島第1原発から25キロのこの街は、多くの住民が避難した寂しさの中で、残された人たちが不安の中で暮らす街だ。
そんな中、原町中央産婦人科医院がある。

院長は、高橋亨平先生。

福島県立医科大を卒業後、昭和46年から原町市立病院(当時)で産婦人科医を務めた。その後、昭和55年に開業して、この街で産婦人科医を続けてきた。
高橋先生が、この街で取り上げた赤ちゃんは1万人を超える。
その親しみやすい人柄から、町の人は親しみをこめて「きょうへい先生」と呼ぶ。
きょうへい先生が、取り上げた赤ちゃんが母親になり、その赤ちゃんが成長して、今度は自分の出産をきょうへい先生に託す。
さらに、その孫の代の出産も珍しいことではない。

この平和な街に、震災と原発の恐怖が襲ったとき、多くの人が遠くへと避難していった。病院や診療所の医師も何割かは避難して、この街から笑いが消えた。

そんな中、きょうへい先生は、震災後も、南相馬市にとどまり診療を続けた。
「患者を置いて逃げられない。人生最大の使命」
「自分のやれることをやらなければ」

原発事故後、南相馬市内で唯一、お産に対応できる医療機関として、80人以上の赤ちゃんの誕生に立ち会った。
「原発事故があっても赤ちゃんは生まれた。とどまって診療を続けて良かった」
きょうへい先生は嬉しそうに笑う。

そんな、きょうへい先生に対する住民の信頼は厚い。
「こうやっていられるのは先生のおかげ、何回も入退院したから。」
「ほかの病院にはいない。心を許せる。」

そんなきょうへい先生を病魔が襲う。

震災から2カ月後の11年5月、大腸癌に侵され、癌が肝臓と肺にも転移していることが判明した。

医師からは「余命半年」と言われた。

それでも、きょうへい先生は怯まなかった。
片道約60キロの福島市にある病院に通い続け、抗癌剤治療を受ける。
診療中には、ポロシャツの胸ポケットに抗がん剤入りの容器を忍ばせ、伸びた管の先の針から絶えず体内に薬を投与することもある。
足には冷えを防ぐための靴下を3枚履き、薬の副作用で時折、どっと出てくる汗を首にかけたタオルでぬぐう生活が続いた。

街から医師が減ったため、患者は産科だけではない。内科も外科も診た。
「今日はどうしましたか。」
白い椅子に深く腰掛けたきょうへい先生は、優しくささやくような声で患者に話しかけると、患者の病状や悩みにじっくり耳を傾けた。

体重は激減した。
身体が悲鳴を上げていた。
次第に、診察の機会は日を追うごとに少なくなっていった。
応援の医師に任せる日も増えた。
それでも、きょうへい先生が診察を行なう日は、患者がにわかに増える。
「今日は、きょうへい先生に診てもらえる」
それを聞きつけた住民が集まってくる。
分娩は昨年の11月以降は行っていないが、つい最近も、妊婦に「ここで産みたかった」と泣かれた。

患者には心配をかけたくない。診療では「悟られないように」と平穏を装う。
「人間である以上、つらいなんて言っていられない。震災で亡くなった人を思えば、私はまだましだ。」

8月になると、「体中がしっちゃかめっちゃかになるような」すさまじい副作用に襲われた。
吐き気が止まらず一晩で体重が3キロも減少、「一つ一つの細胞がしぼんでいく感覚」を覚えた。
「こりゃ重篤だ。いつ死んでもおかしくないな。」
このころから、「死」というものをはっきりと意識した。

そして、インターネットのホームページで自分の現状を訴え、“私の最後のお願い”として後継者を募った。
「この地域でも、子供たちに賢く生きれば安全に生きられることを教えてあげられる人間味のある医者に引き継いでほしい。」
ここの医療をどうしても守りたかった。

きょうへい先生の訴えから約3カ月後の11月、願いは届き、来年から新たな男性医師を常勤として迎えることが決まった。
震災以降自らに課した「南相馬の医療を守る」という役割は一段落し、一つ肩の荷が下りた。

そんな中、痛い身体をおして、きょうへい先生は市民と「南相馬除染研究所」を結成し、ボランティアで保育園の除染などを行っていた。
「南相馬、そして日本の復興のため、まだまだやり残したことがある」

南相馬市のよつば保育園の副園長、近藤能之さんは、きょうへい先生と保育園の除染を行うなど、子供たちのための活動を展開している人だ。
昨年12月17日に開かれた、きょうへい先生の74歳の誕生会で会ったのが最後となった。
その時、きょうへい先生は、「女性と子供がいない街には未来がない。」と言い、進まない復興へのジレンマを語った。
「きょうへい先生は、いつも南相馬のことを心配されていた。」と近藤園長は話す。

そんな南相馬市にも、少しづつ子供たちが戻りつつある。
そんな子供たちにきょうへい先生は、
「君たちのお陰で、我々も生きる希望が持てた。君たちがたくましく成長する姿をいつまでも見ていきたいが、私にはもうそんな時間は残されていない。」
「堂々と誇りを持って生きていってくれることを願っている。頑張れ!」
と声をかけた。
そして
「この地域に生まれてくる子供達は、賢く生きるならば絶対に安全であり、危険だと大騒ぎしている馬鹿者どもから守ってやらなければならない。」
と言った。

きょうへい先生が亡くなった夜。
医院の前に一人の女性が立ち尽くしていた。
南相馬市小高区から原町区に避難する川村美月さんだった。
46歳の川村さんは、震災後、鬱症になったが、きょうへい先生の診察を受けてから改善したという。
「冗談を言ったり、とても話しやすく優しい先生でした。最後にお礼の言葉を言いたかった…。」


厚生労働省は、きょうへい先生の長年にわたる地域医療の功績を評価し、24年度の「産科医療功労者厚生労働大臣表彰」に選出した。
しかし…。
きょうへい先生が、1月22日の表彰式に出席することはなかった。


きょうへい先生から聞いた最後の言葉。
「明日は生きていられる。がんの末期だろうとなんだろうと、だから(患者を)救える。」



posted by 8ちゃん at 15:14| Comment(13) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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